惠白のミニマルライフ

ミニマルライフは沖縄で

三密の怖さ

言語はコミュニケーションツールである同時に別の役割があることを、ほとんどの人は認識していない。

それは 『言語は思考を停止させるためのツール』 だということだ。

 

例えば、私たちが林檎を見たときに、全員がそれを 「りんご」 だと認識しないと言語は意味をなさない。

「林檎かも... いや... 林檎でない可能性も...」 では困る。

つまり、『りんご』 以外の可能性をすべて排除することが大事なのだ。

これが、或る意味における思考の停止だが、そこに危険も潜んでいる。

 

2011年に Eテレで放送された Q~わたしの思考探求 という番組があり、12回のシリーズのうち幾つかは非常に質の高い論議がされたので、何故この番組がオンデマンドで放送されないのか不思議だが、2011年 2月 12日 の 『哲学的に考えるとは』 のゲストだった石川直樹さんと入不二基義さんのうち、どちらか覚えてないがこんなことを言っていた。

 

―― 渋谷という場所が 『渋谷』 と名付けられた時点で思考が停止してしまい、渋谷に対して同じイメージを持ってしまう。でも実際に歩いてみると、そこが 『谷』 であることを初めて実感できる。 ――

 

これは言葉の持つ怖さを端的に言い表している。

渋谷は、『渋谷』 と言語化された瞬間に 『谷』 ではなくなってしまった。

 

日本は、短歌や俳句など、言葉で遊ぶ文化があり、言語化されたものに対して皆が同じように感動することが習慣になっているせいか、逆に言語によって思考停止することが本当に多く、それに気付いてないことが非常に危険だと私は思っている。

その最たる例が、築地から豊洲へ市場が移転した際の 「安全だけど安心ではない」 だ。

100% の安全など、そもそも存在しない。

それを承知のうえで、例えば私たちは車を運転し、飛行機に乗っている。

そして 『安心具合』 を上げるために、自動車保険に入り、多くのクレジットカードには旅行保険が付随している。

安全だけれど安心はしていないなんて、いまに始まったことではないのに、「安全と安心は違う」 という言い回しに、メディアが飛びつき、世間も納得してしまった。

結局、安全が確保されていたはずの豊洲は 『安心できない場所』 になってしまい、問題が複雑化し、道路整備が遅れてオリンピックに間に合わないという事態になり (延期になったことで果たして間に合うのかどうか...)、数百億の金を損失した。

いざ移転が終わると、メディアも世間も呆れるほど簡単に関心をなくしてしまい、「安全とか安心とか、そんな話し... ありましたっけ?」 というくらい、どこ吹く風だ。

いま振り返ると、騒ぎたかっただけの話しである。

 

さらに戦後の影響か、日本人はカタカナを崇拝する傾向が強い。 

記者会見などで、英単語をそのままカタカナにしたものを多用する政治家がいるが、 「1文に1個カタカナの単語を入れて、それをメディアにちらつかせ、ひいては世間を誘導して問題から目を逸らさせようとしているのでは...?」 と疑いたくなる。

 

いまコロナウィルスで私が懸念するのは、まさに言語による思考停止だ。

感染者が出始めた時には 「人の大勢いるところには行かない、至近距離での接触は避ける」 と既に言っていたから、それで十分だった。

恐らく、この時点では皆 「人の大勢いるところと言われても... 電車に乗らないと会社には行けないし、スーパーで買い物しないといけないし...」 や 「至近距離と言われても、会社ではどうするんだろう...? 家庭では...?」 など、行動する場所や行為が危険かどうかを自分で考えてたはずだ。

それが 『三密』 と言ったばかりに、記事にするには2文字で扱いやすく、そもそも 『密』 という漢字を好む日本人が飛びつきやすい文字の並びに沸き立った。

危険な行為を分かりやすく説明して即効性のある効果を生んだことは評価すべきだが、この言葉のせいで世間は自分で考えるのをやめて、単に従うことを選択してしまったのではないかと私は疑っている。

それが逆に 『従わない人』 を厳しく非難することが正義だと思い込ませた可能性は大いにある。

実際、言葉が差別を煽ることを私たちは歴史で何度も経験してきた。

 

普段の生活では、言語はコミュニケーションのツールとして多いに、そして上手に利用すべきだ。

しかし、国の安全に関わるような緊急事態では、言語の持つ怖さを十分に理解して、『小洒落た言い回し』 を自画自賛するのではなく、慎重になるべきだと私は思う。